日本の鎌倉時代と言えば武家政治が始まった頃でもあります。更には平氏が滅亡、鎌倉幕府の設立に加え、源義経もこの時代の初期とされています。
前回の記事でもあったように鎌倉時代の刀剣男士といえば「粟田口派」がメインになってきますが今回の鎌倉時代生まれの刀剣男士は以下の通りです。
「燭台切光忠」「明石国行」「蛍丸」「愛染国俊」「にっかり青江」です。
▼燭台切光忠(しょくだいきり みつただ)…鎌倉時代の長船派・光忠作の太刀とされている。「燭台切」という号の由来は所有者の1人であった伊達政宗が家臣を斬った時、傍にあった青銅の燭台まで切ったということから来ている。なのでこの号が付けられる前、伊達政宗の手に渡るまでの持ち主、織田信長、豊臣秀吉の時代では「長船派・光忠の一振り」という扱いであった。
燭台切の最初の所有者は織田信長とされている。しかし、上記にもあるように「燭台切」というのはあくまで刀に付けられた号の名前になる。信長は「長船光忠」の「光忠」だけで二十口程も所持していたとされている。なので、信長が「燭台切」となった光忠を持っていたかは怪しいとも…
その後、豊臣秀吉へと伝わります。丁度、秀吉晩年の慶長元年10月、伏見城を築いていた頃の話だとされています。秀吉から政宗へ拝領され、伊達家では燭台切を秘蔵としていましたが水戸徳川家の頼房から懇望され、進上されました。
その後は水戸徳川に伝来し、他の伝来していた刀剣160口あまりと共に徳川伯爵家に保管されていました。しかし、関東大震災にて保管されていた徳川伯爵家の小梅低にて焼けてしまう。震災の鎮火後すぐに刀剣が収められていた蔵の扉を開けた為、バックドラフト現象により蒸し焼き状態となる。それまでは焼失とされていた燭台切だが刀剣乱舞の影響があったかはわからないが「2015年4月30日 徳川ミュージアムにて現存を発表」
その年には羽田空港ディスカバリーミュージアムにて展示された。徳川ミュージアムでは常設展「水戸徳川家の名宝展」にて「2016年1月5~3月30日」で展示予定である。更にはこの展示に会わせて刀剣乱舞と公式にコラボがされおり、ゲーム内の燭台切光忠の等身大パネルの設置が行われた。
▼明石国行(あかしくにゆき)…越前分家の明石松平家伝来の為「明石国行」の由来を持っている。ゲーム内では「池田屋の記憶・京都三条大橋」のボスマスにのみドロップが可能となっている。元々は「来派」の刀。来一門の実質的な開祖である「来国行」の作です。来派の刀として実装されているのは「蛍丸」「愛染国俊」の三振り。明石は「来国行」の作ですが「蛍丸」は「来国俊」「愛染国俊」は「二字国俊」の作とされています。
銘の入った国行の太刀の中で唯一、国宝指定を受けており現在では刀剣博物館にて保管されていますが展示はされていない様子。刀剣博物館には博多君も保管されています。
ここで少し、ゲームでの話を…
ゲーム内では初期の頃より蛍丸と愛染を一緒の部隊で出陣させると起こる回想にて「国行」の名前が出ていました。明石が蛍丸と愛染の保護者云々と言っているのは彼が来派の実質的な開祖の作であることからとも伺える。
▼蛍丸(ほたるまる)…来派の来国俊作の大太刀。名前の由来は阿蘇氏の第10代当主となる「阿蘇惟澄(これずみ)」が振るった大太刀なのだが様々な戦いの中で無数の刃こぼれができて、ささらのようになった時、この太刀を壁に立て掛けて眠りにつきその夜の夢で無数の蛍がその太刀の周りに集まり、朝起きると刃こぼれがなくなっていたということから。惟澄の死後は阿蘇大宮司維澄の後裔に伝わる。
そして阿蘇神社の拝殿深くに秘蔵され、眠りに就くこととなり、昭和6(1931年)に旧国宝指定を受け、昭和14年の記録では男爵阿蘇恒丸氏の所有となっていた。
しかし、太平洋戦争終戦時に行方不明となってしまい、現在でもその所蔵は不明である。眠っていた彼の時は600年。そんな長い眠りが終わったのは太平洋戦争後。
日本は降伏後、日本刀を武器であるとみなした連合国軍最高司令官総司令部によって刀狩が行われる。
この時、蛍丸以外にも様々な刀剣達が刀狩によってその多くが行方不明となってしまった。行方不明となった刀剣達はアメリカの手によってガソリンをかけて焼き、海中に放棄していると思われている為、蛍丸達は海底の底で眠っているのかもしれないとされている。
▼愛染国俊(あいぜんくにとし)…来派の刀工・国俊の作。「国俊」と二字に切られた銘を持っているのが特徴。由来は刀の茎の表に刻まれた愛染明王の彫り物から。
元々は豊臣秀吉が所持しており、その後徳川家康へと渡った。元和2年(1616年)の大阪の役で戦功のあった森美作守忠政に下賜されたといわれている。その後は彼の死後、遺物として将軍家光に献上される。後に大姫(水戸頼房娘、家光養女)が前田家に嫁いだ際に贈られ、以来前田家に伝来。
昭和10年には重要美術品指定。旧国宝指定となり、前田利為候爵所持となりました。昭和40年には大野達氏蔵。
現在は重要文化財に指定され、個人の所蔵となっている。
▼にっかり青江(にっかりあおえ)…鎌倉時代最年少は「にっかり青江」です。作者は備中・青江派作の大脇差。ゲーム内では脇差ではあるがイラストは青年くらいとなっている。元は大きな太刀であったことが影響しているらしいが骨喰と鯰尾よりは年下で浦島、物吉よりは年上である。
名前の由来は「にっかりと笑う女の幽霊を切り捨てて、翌朝確認したら石灯籠が真っ二つになっていた」ということから。この時の武士は「中島修理太夫」「九理太夫兄弟」「狛丹後守」の三説がある。その後はこの武士から柴田勝家の所有となり、子の勝敏へ譲られる。その勝敏を討った羽柴長秀から秀吉に献上。さらに子の秀頼から京極高次へと所有が変わっていった。
以来、にっかり青江は京極家の秘蔵とされ、江戸時代には刀剣極所の本阿弥の鑑定により無代(価値が付けられぬほどの極上品)とされる。
そして昭和15年に重要美術品に認定。太平洋戦争後に流出されるが平成9年に京極家が治めていた丸亀市が購入しました。
太平洋戦争といえば先程の蛍丸もこの時に行方不明になったと書きましたがこのにっかり青江は行方不明になるもなんとか京極家が治めていた土地へと戻ることができました。
現在は江戸時代に製作された刀の拵えと共に丸亀市立資料館に所蔵されています。
さて、この「にっかり青江」ですが作者は備中青江派なのですがこの「備中」なのですが平安組で紹介した「古備前」の鶯丸と今回紹介した「備前長船派」の燭台切光忠。名前が似ている為、同じようなものなのではないかと思う人も多いかと。
あながち、間違いではないのですが根本的なものを辿っていくと…
「備中(びっちゅう)」は現在の岡山県西部
「備前(びぜん)」は現在の岡山県東南部、香川県小豆部、直島諸島、兵庫県赤穂市の一部
一応、同じ現在の岡山県とされています。鶯丸の小備前と燭台切の備前は同じだとは思うのですが備中とはまた、少し違う場所になるので安易にまとめづらいと思います(あくまで個人的なものですが…)
ともあれ、近い地域で生まれた刀剣には変わりないということ。ですが、あくまでそれだけということをお忘れなきよう、お願いします。
ここで今回、紹介した三振りの作者である「来派」について一部ではありますが簡単に説明をば…
▼来派…鎌倉時代中期以降に「粟田口派」に代わり、山城で栄えた刀工集団。
開祖は「来国吉」とされているが古剣書には作品の記載はあるが現存は確認されていない。
・来国行…今回、紹介した明石国行の作者となっており、実質的な開祖とも言われている。
・来国俊(二字国俊)…愛染国俊の作者となっている。銘に「国俊」の二字のものと、「来」を冠した「来国俊」の三字のものがあり、作風なども異なる為、同人・別人説とある。更には二次銘のものは在名品や短刀が少なく今回、紹介した愛染はとても価値が高いものとなっている。
蛍丸の作者の国俊と愛染の作者・二字国俊は別人である可能性が高いとも言われている。
来派には粟田口派同様に一番、最初に刀派を開いた者からその息子達、弟子達等へと広がり、様々な作品、作風が残っています。作品として名前が残っていたり現存していたりと沢山、あります。
ちなみに個人的な話ですが管理人は東北住みなのですが実は今回紹介した「来派」の短刀を地元の武将が持っていたというのを調べていて見つけまして…
現在は地元の武将の元にはないのですが井伊家というところに現在は伝来しているらしく何故か親近感が沸きました。
調べていくと刀剣男士達と自分の住んでいる地域に何かしらの関わりがあるのではと思うとなんとも感慨深いですね。
さて、次回は室町時代へと入っていきます。室町時代といえば室町幕府がつくられた時代です。そしてここから南北朝時代、戦国時代へと少しずつ、入っていきます。
それでも少しでも刀剣やそれにまつわる歴史に興味を持ってくれれば幸いです。
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