先日、仕事帰りにコンビニに立ち寄ったら既にバレンタインコーナーができていてもう1月も終わりだなということを実感しました。
わたしはチョコなんてたまにしか食べないし、そこまで好きなほうでもないですし、というか貰ったら食べるくらいで自分から買うことはよっぽどでない限りないんですが…
さて、そんなことはどうでもよいので今回、紹介するのは戦国時代頃の刀剣男士となります。
▼歌仙兼定(かせん かねさだ)…美濃、関に発展した刀工集団・兼定の作。兼定には初代から3代、会津兼定と時代によって名前が変わっているようです。この歌仙兼定は二代目の「之定」の作品とされています。「之定」は「定の字をウ冠の下に定と書く独特の書体で切ることが多いことから之定(のさだ)と通称されます。
歌仙はゲーム内では一番最初に選べる「初期刀」の1人。細川忠興(ほそかわただおき)の佩刀として有名。名前の「歌仙」だが由来は結構、物騒なものである。
ざっくりと言ってしまえば「家臣を36人斬った後、三十六歌仙にちなんで歌仙兼定」です。刀なのだから人を斬るのは当たり前なのですが家臣を36人ってすごい数ですな……
ちなみにこの「三十六歌仙」とは藤原公任(ふじわら の きんとう)の平安時代の和歌の名人36人の総称です。
そして連句の形式で三十六句のものを「歌仙」と呼ぶのはこれにちなんだものであり、故に忠興は自分の愛刀を「歌仙兼定」としたのでしょう。
「歌仙兼定」は肥後熊本藩3代藩主・細川綱利の時に家老・柏原要人定常が拝領。昭和30年頃までは柏原家に伝来したという。柏原家を出た後は転々としていたが昭和の初め頃に当主・細川護立により買い戻され、彼が設立した永青文庫(えいせいぶんこ)に所蔵されているとのこと。
この「永青文庫」は細川家ゆかりのものや設立した細川護立が収集した美術品を所蔵、展示している美術館である。
▼蜻蛉切(とんぼぎり)…天下三名槍(てんかさんめいそう)の一つで戦国時代・本田忠勝が愛用していた槍です。ゲームでは他の天下三名槍である「御手杵」と「日本号」も実装されています。名前の由来は戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たって二つに切れたや、先端に止まった蜻蛉が音も無く、真っ二つになったという逸話から。
ゲーム内のイラストで彼の体に書かれているのは梵字で実際の刀身に刻まれているものだそうです。
作者は「三河文殊派・藤原正真」です。「銘 藤原正真(ふじわら の まさざね)作/号 蜻蛉切(とんぼぎり)」となっています。
蜻蛉切の刀派は三河に移った村正一派・三河文殊派です。なのでゲーム内で村正となっているのはそれが理由でしょう。しかし、村正と言えばゲームとかでよく「妖刀」として有名な徳川家に伝わる刀だが、全ての村正がそうだとは限らない。現に家康の家臣として有名な忠勝が愛用していた蜻蛉切も村正の刀である。
現在は沼津市の実業家・個人の所蔵となっています。過去に静岡県三島市の佐野美術館で展示されていましたが個人の所蔵なので公開は珍しかったとも言われていました。
そして蜻蛉切には3本の写し、レプリカが存在します。
▽岡山城所蔵「三河武士のやかた家康館」にレプリカが展示されています。
▽東京国立博物館所蔵「固山宗次作」が所蔵されています。
3本目は江戸時代の記録では本多家にもう一つ、蜻蛉切と呼ばれる槍があり、形は違うが同じ模様が彫られ、作者も同じだったという。しかし、こちらの消息は全く、行方不明だそうです。
▽御手杵(おてぎね)…蜻蛉切、日本号と同じく天下三名槍の一つ。江戸時代では「西に黒田の日本号、東に松平の御手杵あり」とも言われていたそうです。
戦国時代、というよりは室町時代の刀工・島田義作が作った作。名前の由来は「鞘が細長くくびれていて手杵のようだったから」というの有力らしい。
もう一つの諸説では所有者の結城晴朝が戦場で挙げた敵の首をこの槍に通し担いで帰城していた時、途中で首級が一個、落ちてしまったという。その時に担いだ槍の姿が手杵のように見えたので手杵の鞘を付けたことから。
正直、御手杵って最初、読めませんでした。ゲームで出てきてくれた時、あれ、なんて読むの…となりました。
御手杵の刀身は柄(持つ部分)を加えると333.3cmの大身槍。槍のほとんどは大きなものですが大身槍となると相当な大きさですね…絶対、持てないです……
そんな御手杵ですが江戸時代では参勤交代の行列の先頭・馬印として使用されていた。しかし、大きさに伴って、かなりの重さだったらしく運ぶのに苦労したそうだ。
そして長い間、松平家の家宝として大切に扱われていた彼は昭和20年5月25日の「東京大空襲」にて当時の所蔵庫が焼夷弾の直撃を受け、焼失。三名槍の中で唯一失われてしまった槍となりました。しかし、平成15年に島田市の有志により、レプリカとして復元され、結城市に寄贈され、同市が所蔵、保管しています。
その大きさのため、一般公開はされていなかったものの、平成26年の結城美術館の完成に伴って、常設展示がされるようになったといいます。
▽日本号(にほんごう)…天下三名槍の一つとして上記の二人と共に有名な日本号。ゲームでは二回目のイベント「戦力拡充計画」にて先行実装。その後は池田屋の記憶にて実装。池田屋一階のボスマスにのみドロップ、入手が可能となっています。名前は「ひのもとごう」とも呼ばれています。有名な「黒田節」の母守友信(もり とものぶ)の逸話の元となった槍でもあります。
その逸話は福島正則(ふくしま まさのり)が母守友信との酒の飲み比べで負けてしまったので母守友信に譲ったとされ、呑取りの槍とも言われている。
そんな日本号ですが元は鶴丸や一期一振達と同じく、御物でありました。ゲーム内にある「正三位(しょうさんみ)」という位持ちなのです。この正三位は本来、人物に与えられるのですが彼がいた黒田家の「黒田長政」もこの正三位を贈られた人物でもあります。
元は皇室所有物である御物で正三位の位を与えられたという伝承が由来。正親天皇から室町幕府15代将軍・足利義昭に下賜され、その後は織田信長、豊臣秀吉に渡り、福島正則へと渡りました。福島正則からは上記の通り、酒の飲み比べで負けてしまい、日本号は黒田官兵衛の武将であった母守友信へと譲ることとなります。その後は母守家に伝わりますが明治時代に持ち出されてしまう。そこからは元御物である日本号は旧福岡藩士出身の頭山満の元へ持ち込まれ、千円で買い取られる。そして頭山は侠客・大野仁平にタダで与えてしまう。どうしてそうしたのかよくわかりません…
大野仁平が亡くなると彼の遺族が頭山の元へ返却しようとしたが「それは与えたものだから受け取れない」と断られる。しかし、旧福岡藩士出身の実業家・安川敬一郎男爵が買い取り、黒田家に贈与しました。ここで日本号は黒田家へと戻ってくることができました。
昭和になった後、黒田長礼の死後に遺言により彼の妻から福岡市へと寄贈。現在は福岡市博物館の所蔵として展示されています。
ちなみにこの日本号が展示されている隣には同じ黒田家へと渡った「へし切長谷部」も期間限定で展示中です。
さて、今回は以上の四名を紹介しました。
思ったのですが戦国時代から明治以降にかけるとあまり、主は転々としていかないようですね。紛失だったり過去の震災、火事などで焼失、焼身になってしまったものが今まであったのですが明治以降は美術館や個人の所蔵になっていくことが多いようで刀剣達も一つの場所に落ち着いていっています。
次も引き続き、戦国時代あたりの刀剣達を紹介していきます。
(´-`).。oO(うちの本丸に日本号さんは未実装なので早く、お迎えしたいです…)
この記事へのコメントはありません。