皇室御物とは日本の皇室の私有品となっている絵画、書跡、刀剣など。その他、用例として存在するが単に「御物」と言えば皇室の私有物を指し、「ぎょぶつ」と読むのが通例。
今回はそんな御物の話です。刀剣乱舞で実装されている皇室御物の一つ、鶴丸国永をピックアップです。
鶴丸に関して過去の記事はこちらから→鶴丸国永について
▼鶴丸国永…平安時代の刀工・五条国永の作(太刀)図録での登録名は「太刀 銘 国永(名物鶴丸)」「たち めい くになが めいぶつ つるまる」となっている。
現存する国永作としては唯一、皇室御物とされている。そもそも現存する五条国永の有銘作は稀でその中でも特に優れた傑作とされている。更に彼、五条国永の銘が入った有銘作が極端に少ない。
残っている国永の作は鶴丸を含め、4口しか残っていないらしい。作者の国永は三日月宗近の作者・三条宗近の弟子とも言われているがそれはさだかではない。しかし、三条派の流れをくんでいることは確かのよう。
▼刀としての鶴丸国永
享保名物帳にも記載があり、長さは2尺5寸9分半で現代の長さだと78.63cm。前回、ピックアップした大倶利伽羅、燭台切よりも長いです。号の由来はかつての太刀拵えの蒔絵で鶴の文様が施されていたことによる伝わっているが太刀拵えが現存していない為、現在でも由来の詳細についてはわかっていないという。
ちなみにハバキの部分に竜胆の透かしがあることから異称を「利無動/りむどう、りんどう」とも呼ばれることも。しかし、御物であること、一般に展示がされないこともあってか実物の写真などもない為、実際にあるかどうか確かめることはできない。
▼来歴
鶴丸は元々、余五将軍と呼ばれた平維茂が所持。その後秋田城介へと伝わる。
鎌倉時代には安達貞泰が所持。しかし、弘安8年(1285)11月に起こった霜月騒動で安達一族が滅ぼされた後、9代執権北条貞時が入手。ここで有名なのが貞時は貞泰の墓で共に眠っていた鶴丸欲しさに墓を暴いたとされる話。
源氏の刀・髭切も実は一時、貞時の元にいたという説もある。髭切は霜月騒動で行方不明になった後、貞時によって法華堂に奉納されていたらしい。少なからず、関係がないわけではないようです。
その後は織田信長が入手。しかし、北条家に渡ってから以降の詳細が残っておらず、どのように信長が鶴丸を入手したかは不明。信長は御牧勘兵衛景則に鶴丸を与え、彼は信長亡き後に秀吉に仕え豊臣へと至る。関ヶ原の戦い後、鶴丸を手放した景則。鶴丸は伏見の藤森神社にあったという。
藤森神社では御神刀とあったが貞享年間(1684~87)、本阿弥光的の出家していた次男が伏見の藤森神社に神事用の太刀を借りに出向いた際、そこにあった鶴丸国永を発見。
刀剣鑑定で名高い本阿弥家に持ち込まれお墨付きを得た後、元禄年間(1688~1704)以降に伊達家へと譲られ、ようやく一所に腰を落ち着ける事となった。
江戸時代では仙台藩主・伊達家の所有にあったが明治34年、明治天皇の仙台巡幸の際に伊達家より献上。皇室御物として現在に至っている。
過去、昭和57年に開催されていた特別名刀展にて三日月宗近、山姥切国広と共に実は鶴丸はひと月ほど展示・公開されていたのです。
いつか、展示されることがあればいいですね。
この記事へのコメントはありません。