前回に引き続き、戦国時代辺りの刀剣男士を紹介していきます。
今回紹介するのは左文字や粟田口と同じようにゲームの中で兄弟だという設定になっている「刀派・堀川」です。
▽山伏国広(やまふし くにひろ)…安土桃山時代の刀工・堀川国広の作。由来は日向古屋で山伏鍛冶であった頃の国広が打ったものだからという。
堀川派の刀は年月の入った刀は残っているが資料が少なく、どれが正しいのかはあやふやである。そんな堀川派の刀で最初に紹介する「山伏国広」は実装されている刀剣男士の中でも珍しく誕生日、打たれた日がほぼ明確になっている。
実際の刀には「山伏之時打之」「天正十二年二月彼岸」と銘が入っている。この銘にある「二月彼岸」とは「グレゴリオ暦1584年3月のお彼岸」です。
刀身の彫りには梵字と「武運長久」の文字に裏に梵字の不動明王を意味するカーンマンの立ち不動が施されています。そして「武運長久」と刀身に彫られている刀剣は珍しく、山伏国広のみらしい。
国広は当時、日向伊東氏の領内で山伏鍛冶をしていた。伊東氏が島津氏に敗れ、国を去った際に後の伊東マンショと呼ばれることとなる「伊東虎千代麿祐益(いとう とらちよまろすけます)」のお供として国広は日向を去ったそうです。その後は虎千代と別れ、流浪中であった伊東家家臣祐安のために再び、刀を打つようになる。長くなりましたがこの時に打たれたのが「山伏国広」です。
現在は重要文化財に指定されており、個人蔵となっています。
▽山姥切国広(やまんばぎり くにひろ)…ゲーム開始時のチュートリアルで選べる刀剣男士の1人。安土桃山時代に長尾顕長(ながおあきなが)の依頼で打たれた刀。公式では「コンプレックスこじらせ系打刀」と言われている。この由来は彼自身の名前にもあるように「霊剣・山姥切」の写しとして打たれたものから。
「銘表 九州日向住国広作」「裏 天正十八年 庚寅弐月吉日 平顕長」「山姥切国広」となります。
来歴は長尾顕長が北条氏政から拝領した「備前長船・長義作 山姥切」の写しを堀川国広に依頼してできあがったのが始まりです。
堀川国広は「真刀の祖」と呼ばれるほどの名工で数多くの弟子を輩出してきたがその中でもこの「山姥切国広」は足利滞在中で「国広作中第一の傑作」として名高い。
長尾顕長は小田原落城後、領地を没収され、彼は北条家遺臣の石原甚左衛門へと渡る。後に関ヶ原の際に石原は井伊家の人に加わり、同家の渥美平八郎に与えました。
明治維新後は渥美家から彦根長曽根の北村醤油屋に質に入れられ、流されてしまいます。それを旧藩士の三居某が買い取り、秘蔵としました。大正9年に国宝審査員・杉原祥造が買取、重要文化財に指定され、現在は個人所蔵となっています。
▽堀川国広(ほりかわ くにひろ)…上記の堀川派の刀工が打ったとされる脇差。ゲーム内ではイラストの通常衣装や内番の時に共通点があることから三兄弟として扱われることがあるが山伏と山姥切より、資料が少ない為、順番は一番上だったり、末っ子だったり…単純に刀の種類やステータス的にみれば彼は脇差なので末っ子として扱われることも多いようだ。
史実ではゲーム内の台詞にあるように「土方歳三」が愛用していたとされる堀川派の脇差。しかし、諸説があるようで少ない彼の情報の中でも先ほどの土方歳三の脇差ということ。だが、史実の土方歳三の生前から日野の生家や親類宅などに「堀川国広」が実際にあったという証拠は見つかっていません。
なので本当に土方歳三が使っていたのかどうかが怪しいとされています。しかし、近藤勇が郷里に宛てた書簡には土方の脇差が「一尺九寸五分堀川国広」と認めている。幕末当時でも堀川物(彼の作である刀の総称)は珍しく、貴重価値の高いものだった。なので土方の堀川国広の脇差とされているのは偽者だったという説が有力だそうです。
ちなみに国指定重要文化財に「脇差 銘 日州古屋住国広作 天正十四年八月日」等がある。これが土方が使っていた脇差という可能性はなく、やはり、資料がないために彼の存在は少し、不思議な立ち位置にいるようです。
今回はここまでです。堀川派の刀剣男士は年代がはっきりしているというわけではないので三人の中で誰が最初で誰が最後というか末っ子的なものになるのかはわかりませんがそんな彼らでも刀として生まれてきているのは間違いはないと思いますので史実も含め、彼らを大切にしていきましょう。
次回はえっと…持ち主的には幕末ですね。その前に1人、この時代で最後らへんの人がいるのでその人も合わせて紹介していこうと思います。
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